体育祭シーズンになると、浮上するのが組体操についての議論。
その意見はふたつ。「情操教育のために必要!」と「ケガの危険性があるから中止!」の対立。……素朴な疑問なんですけど、なぜ中間の「ケガしないようにやればいいのでは?」がないんですかねぇ。
組体操のピラミッドを高くする必要あるん?
体育でケガなしは無理な話です。
50m走でも全速力から派手に転べば骨折もあるし、パン食い競争で窒息もある。借り物競走で「貸せオラ!」と素手ゴロになるかもしれないし、創作ダンスで足を曲げてはいけない方向にぐねることあるし、バク転要員は地面に刺さる可能性も捨てきれない──。
これらは”ありえないことはありえない話”で、発生確率はまだ少ないほう。起きたら不運だねレベル。
誰が見ても「これは大事故不可避」な題目があります。それが組体操の「ピラミッド」です。
ピラミッドは四つん這いの人を積み上げていく競技(?)。3人で2段ならまだ雑談で余裕ですが、世には7段以上とか、ギネス狙おうぜとか、無駄に高く設定した末に崩れて事故るケースが絶えない。これが問題視されています。
同じ組体操でもサボテンや扇なら、恋は芽生えてもケガは軽度でしょう。7段のピラミッドがもしも崩れたら……。上下どちらも重大なケガを負うのは、誰でも想像できるでしょう。
そもそも「なんで高くする必要があるの?」って話ですよ。
組体操で試されているのは先生のマネジメント力では?
組み体操は運動会の花形として続いてきたが、毎年どこかの学校で骨折が発生している。地域や保護者の要望があっても、それに左右されない冷静な実施の判断が学校に求められる。
https://this.kiji.is/568974360315823201?c=39546741839462401
先の記事から抜粋しましたが、先生など管理側に求められるのは『冷静な実施の判断』。これに尽きますね。
7段ピラミッドの画像をみると、50人ほどの生徒が参加しているようですね。この中には、「やりたくねぇ」のもいれば、「ウェウェーイ!」なのもいるし、「意味不明」な考えもいる。
日本の教育は”普通”を生み出すことを重視しています。それは個性(考え)を汲み取らないんですよね。これは会社組織にもいえること。
管理者である先生は、「やるorやらない」の判断をしなければなりません。もしやるなら──
- 生徒の何割が賛成しているのか?
- ケガをしないようにするには?
- どうしてもやりたくない子はどうするべきか?
- 当日に欠員が出たらどうするのか?
などのリスク管理を徹底するべきです。やらないにしても──
- 手を抜いても評価があがる方法
- 安全をとった理由と説明を上に納得してもらうプレゼン
- 生徒の意思を尊重したことを親に説明する
- みんなで逃げよう(ボイコット)
などの道があります。
先生は責任者です。立場上、集団の方向性を決め、皆を導く役目を背負います。つまりどちらの選択でも、マネジメント力が試されます。だから上司は言い逃れもしやすいす──
「部下を成長させるためにやった。責任は彼にあるが私にもある!(でも軽くしてネ♪)」
この線は間違ってないと思うんですよ。「やりたくない生徒も多いんです」には、「だって伝統だもん!」と強引に押し進めて、いざ事故れば「でもでもだって!」で逃げることができます。
7段ピラミッドを統制するには、想いをひとつにするしかないでしょう。、嫌がっても全員無理やりやらせて、体調悪いとかいえば「木の精!」で流したり、どうしても無理ですといっても「やれる頑張れる出来るって!」とSYUZOしたりと、もはや課長を越えたチームマネジメントが問われますね(戦慄)。
んでそれを通常業務と合わせてやるんでしょ?
ただでさえ”通常で”長時間業務するしかないエブリデイ残業(サービス)なのに?
生徒も壊れるが、先生も壊れちゃいますよ。一番楽なのは”よかれ”で指示する上司だけです。
やりたい人でやる、やらない人はやれることをやる
最近はビジネスシーンで「多様性(ダイバーシティ)」がよく使われます。
これは個性を尊重する考えです。だから「やりたくない!」といえばやらなくてもいい考え。日本は「普通の能力」という”平均化”が重視されているから、ボスの思考から外れただけで”異端”になるんですよね。国際性が豊かな国でもないから、多様性という異物を未だに受け入れられていない。
これは方言をバカにしているのと同じです。
日本語でも”標準語の話”が出たりしますが、そもそも標準の日本語ってなんだよ、イントネーションの違いってなんだよ。そんなので比べるのは、どこにプライド持っているんだよとツッコミたい。伝わればそれでええやん?
組体操も当人たちに意見を募っても、「やりたいorやりたくない」のどちらかで必ず分かれますね。そのどちらを選んでも、自分の考えと違うことをしなければならなくなる。多様性はこれを改めようってことですよ。
やりたいならやりたい人だけでやればいい。その方が円滑に進みますし、統制するのも楽になります。
やりたくない人はやれることを選べばいい。自分の意思で決めたことなら仕方ないし、後悔しにくくなります。
どちらでもない人は……。全く違うことをさせるのもいいんじゃないですかね。別に図書館で何冊読めるかとかやってもいいし、校内清掃選手権でもいいじゃないですか。
全員が同じことをやらなければならない伝統という呪いは、いい加減に「やりたい人だけ」に見直したらどうですかねぇ。
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